2025年11月29日。
新潟市中央区のANAクラウンプラザホテルの懇親会会場に並んだ59本の新潟清酒。
上・中・下越、佐渡、59蔵が醸したこれらの酒の共通点は酒米「越淡麗」で造った日本酒であることだ。

この日、酒造好適米「越淡麗」の生誕20周年記念式典が催され、新潟県、県醸造試験場、酒米プロジェクトチーム、生産者、JA、酒造会社、主催者である県酒造組合の原料米対策委員会や越淡麗栽培研究会事務局ら、越淡麗の開発からこれまでの歩みに関わった80名を超える人たちが集った。
![]() 会場の一角に展示された、25年度特等米の写真 |
![]() 令和7年度産の玄米分析の最優良米 |
![]() 40%精米のサンプルも展示された |
![]() 21%精米。高精米にも耐えられるのが越淡麗の特徴の一つ |
越淡麗についてはSAKETOPICS 2024年11月号「ドラマティックな『越淡麗』誕生物語」でも紹介したように、2004(平成16)年に当時の平山郁夫知事によって「越淡麗」と命名された。それから20年余りの歳月が流れた。密度の濃い20年だった。
懇親会に先立って開催された記念式典の冒頭あいさつで、新潟県酒造組合の大平俊治会長はこう振り返った。

「まだ『酒72号』という名前だったときに、その酒を飲ませていただき説明を受けた。さまざまな掛け合わせを試した中で選ばれた品種が、山田錦と五百万石を掛け合わせたもので、バランスのいいものができたと。味わったときに「これいいですね」といったのを今でも覚えている。山田錦のフルボディよりもう少し新潟寄りのバランスのよさがあった。軽めでいて、味わいが深い。新しいものができたという手ごたえを感じた」
「越淡麗」の前に開発した「一本〆」での反省を踏まえ、生産者と酒蔵、そしてさまざまな立場の人たちがプロジェクトチームをつくり、越淡麗を育て上げ現在もよりよい酒米を目指し取り組んでいることに、大平会長は改めて感謝の意を表した。

式典では新潟薬科大学応用生命科学部教授の小林和幸さんが「越淡麗の開発の歴史と高品質生産のポイント」の演題で基調講演を行った。
新潟県作物研究センターと県醸造試験場の研究協力体制が強化された1996(平成8)~97(平成9)年の共同開発スタート時の話から、越淡麗開発の特徴、その過程での苦労を具体的に解説した。
オール新潟路線を目指し酒蔵のニーズに応える品種開発を行っていく中で、越淡麗はこれまでの酒米開発とは大きく異なった。「これまで重要視していた生産者の栽培しやすさは必要最低限とし、何よりも酒造特性を最優先した」と小林さん。
「目的の性質をもつものをいかに見つけて効率的に選抜をしていくかが品種開発のキーポイントです。交配から始まって12~15年。育種の早い段階から県醸造試験場と県酒造組合が互いに酒造特性を確認しあいながら、試験場での試験醸造を繰り返し、有望な系統や品種候補の絞り込みを行ってきた。さらに品種開発の最終段階では津川や村上など酒造組合の技術委員会を務めているメーカーや北区(旧豊栄市)の生産者による大規模な試作を実用規模で行うことでデータを積み重ねることができた」。山田錦の優れた精米特性と、五百万石ゆずりのゆるやかでおだやかな給水特性を供えた究極の酒米が、画期的な品種として誕生し、本格的な生産が始まった。
その後も苦労は絶えなかった。
「越淡麗」は醸造特性を最優先し選抜していったため、これまでの育種なら葬り去られていた栽培しにくい品種だった。
しかし「栽培方法によって克服できる欠陥は致命的な欠陥にあらず」を合言葉に、それを乗り越えていった。この言葉は1956(昭和31)年に栽培が難しいコシヒカリを育種するときに使われた名言だった。新潟県の米生産者のプライドがこの言葉にあった。
その後は技術力のある生産者の方々に登録してもらい栽培研究会を立ち上げ、酒造メーカーも参加し、高品質を保ち、進化を続けている。2009(平成21)年には県農業総合研究所、県醸造試験場、県酒造組合の三位一体の取り組みが評価され、「越淡麗」開発グループが新潟日報文化賞を受賞した。
現在も変わらず栽培研究会を開催し、全生産者の米を県醸造試験場で分析し結果を全生産者と酒蔵に公表し、切磋琢磨している。
「このような素晴らしい越淡麗を原料として、それぞれの酒蔵が自慢の技術で仕込み、人々に感動が生まれるような新潟清酒の世界が広がっていってほしい」と小林さんは思いを語るとともに、今後についても触れた。
「20年経ちました。その地位を確たるものにするために、新たにプロジェクトも立ち上がる。高温耐性にすぐれ、酒造特性が安定した酒米品種の開発も始まっている。最新技術を使いながら、きわめて難易度の高い挑戦ではあるが、より優れた県産酒米品種の開発が期待されている。私たちの取り組みはまだまだ続きます」
小林さんとともに基調講演を行ったのは、2017(平成29)年から2025(令和7)年までに特等米を生産し、この日表彰を受けた渡辺酒造店(糸魚川市)の渡辺吉樹さん。
令和2年産・4年産で特等米を生産した渡辺さんは、越淡麗栽培者として「越淡麗の自社栽培 2008年の作付け開始から今まで」の演題で語った。
「越淡麗は五百万石に比べると栽培の難易度が高い。しかし酒質が違うのでバリエーションとして、重要な品種。越淡麗を使うと、本当に素晴らしいお酒になる。五百万石とは明らかにキャラクターが違う」と、越淡麗の存在意義を語るとともに「越淡麗の最大の特徴は熟成に向くこと」と、この酒米の可能性に大きな期待を寄せる。同時に、後継者問題や高温対策などこれからの課題についても熱く語った。
「若い人たちが将来に希望をもってやりたいと思ってくれる土台、素地をつくるのが自分の役割。それは一社でできることではない。キーワードは連携、問題の共有だと思っています。酒が造れ、おいしい酒を飲めることに幸せを感じながら、きょうは皆さんの『越淡麗』の酒で語り合いたい」と締めくくった。

表彰を受ける渡辺さん(中央)と板垣さん(左)
この日、渡辺さんとともに特等米生産者として表彰を受けたのは佐渡支部の本間進さん(平成29年産)、中越支部の川上哲雄さん(平成30年産・令和1年産)。
そして種子生産者の板垣直朗(いたがきなおあき)さんも表彰された。17年間、越淡麗の種子を栽培する唯一の生産者として取り組んできた。式典後の懇親会では「責任重大で常にプレッシャーを感じていますが、今日が一番プレッシャーです。『越淡麗』にこれだけの人たちが関わっていることを肌で感じ、やりがいを実感しています」と板垣さん。越淡麗を使った酒が気になり、表示を見て購入して飲んでいるという。

懇親会での板垣さん(左)と県酒造組合坂井専務(右)
「小学校6年の子どもが米農家になりたいと言っているんです。次の世代へバトンを渡せるよう、道をつくっていきたいと思います」と板垣さんはほほ笑んだ。
県酒造組合前会長の齋藤𠮷平さんの乾杯の挨拶で始まった懇親会では、生産者と酒蔵がタッグを組んで作った越淡麗の酒を酌み交わし、プロジェクトに関わった人たちがその苦労を振り返り、そこから得た喜びを再び語り合い、会場じゅうが笑顔であふれた。

会場には越淡麗開発時に県醸造試験場長を務めた渡邊健一さんと、繰り返し行われてきた試験醸造を担った専門研究員の鍋倉義仁さんの姿もあった。

渡邊健一元場長(右)と鍋倉専門研究員
壮絶な現場であったことを、笑顔で振り返るお二人。渡邊さんは越淡麗が業界にもたらしたエピソードも話してくれた。
「新潟日報文化賞を受賞した翌年の平成22酒造年度全国新酒鑑評会で、それまで『山田錦』を使用しているかいないかで部門を分けて審査していたのですが、その区分が撤廃されたんです」
主催者側の文書には、山田錦以外の酒米が成長し、金賞率が高くなったことが廃止理由と明記されている。「『越淡麗』がこの制度を変えたといっても過言ではありません」と渡邊さんは誇らしそうに語った。

渡辺さん(左)と県農業総合研究所作物研究センター長の樋口泰浩さん(右)、県酒造組合副会長の平田大さん(中央)
基調講演をした渡辺吉樹さんは「越淡麗は新潟の宝です」と言う。
「新潟県は宝物を手に入れた。これをあまり多くを望まずに、大事に使って大事に栽培農家を温存していければ、酒のキャラクターとしてさらに魅力的な存在になっていくことでしょう」
冒頭の挨拶の最後に、大平会長は「これからもう少しするとこのお米が全国で自由に作れるという時期が来るかと思います。しかし我々の結びつきと、これまでやってきたことがアドバンテージになって、これからもますますいいお米にしていく。これからも天候の変化などに対応できるよう、研究を続け進化していく。そういうお米であってほしい」と語った。
20年の節目の会に参加しただれもが、我が子のように愛おしい「越淡麗」の存在意義を振り返り、30年、40年に向かってワンチームで困難を乗り越えて歩み続けることを確認した1日だった。
ニール
『cushu手帖』『新潟発R』編集長
髙橋真理子
cushu.jp