170年の歴史を受け継ぎ「雪室貯蔵」などの挑戦も「女の蔵」が醸し出す『雪紅梅』
長谷川酒造

長谷川酒造HASEGAWA shuzo

一覧へ戻る
PICK UP 2021

酒造り60年、杜氏澤中の最後の仕込みの年です。一つ一つの工程を大切に、そしてその想いを丁寧に伝えながらお届けします。

蔵人が持ってきた二つの利き猪口。社長の長谷川葉子さんは、色を見て、香りを確認し、味を利き、 「これは、このくらいでよかったね。もう1本の方は、少し抑えてもいいね。また記録しておいてください」と、濾過の前後の具合を確認し、指示を出す。

いち早く雪室貯蔵をスタート

「越後雪紅梅雪中貯蔵酒」

「お酒は生き物なので、その都度、その時の状態に応じて対応をしなければいけない。そして、記録に残す。自分にとっての安心のためでもあるんです」
長岡市にある摂田屋と呼ばれる地区は、酒、味噌、醤油など、醸造産業の盛んなところ。
この地で1842年に創業した酒蔵の経営を、長谷川社長が担ってから20年以上になる。 近年、よく聞くようになった雪中貯蔵・雪室貯蔵を、専務になって間もない頃に始めた。
雪深い小千谷の里で、室温0℃、湿度90%。静かに出荷の時を待つ酒は、定番の人気商品となっている。 また、蔵の裏側に並ぶ冷蔵庫のコンテナ。
熟成酒以外は、フレッシュ感を保つため氷点下の設定だ。

突然、酒蔵経営を託された嫁

30年ほど前、銀行員の経験もある長谷川さんは、「事務を少し手伝う程度なら」と気軽に蔵の仕事に加わった。ところが、夫・道郎さんが参院選に出馬したため状況は急転。
参院議員となった夫に代わって専務となった身に、蔵の経営全てがのしかかる。義父・長谷川信氏も法務大臣を務めた家ではあるけれど、酒蔵の運営をするなど考えもしなかった。やるしかない状況だったという。

震災で残った仕込蔵

唯一残った正面の仕込蔵

社員と共に無我夢中で働き、少しは安定してきた矢先の2004年10月24日、新潟県中越地震が起こる。あまりの惨状に廃業も口にした夫。
しかし、そんな状況の中、頑張っている周りの人たちを見て、「今はやめるわけにはいかない」と続けることを伝えた。
全壊した2棟の蔵。しかし、
「仕込蔵は被害をまぬがれました。やれってことなんでしょう。酒造りを続けなさい、と」酒蔵を回りながら、懐かしそうに愛おしそうに話す。
「このタンク、行政の補助金に応募し、採用され購入できました。厳しい審査を受けての決定は本当に嬉しかった。2年連続で採用して頂き、格段により良い酒造りに向かっていくことが出来ております」

娘たちとともに

写真、左から、次女の聡子さん、三女の幸子さん、長女の祐子さん

子供は娘3人。その誰にも継げとは言わず、それぞれの道を歩き始めた娘たちを見送った。
「海外で酒蔵というものの魅力に気づいた三女の幸子が、会社に入ると告げてきました。厳しいこの業界に入っていく妹を見て妹を助けたいと長女、次女も帰って来てくれました」
ところが、三女の幸子さんが29歳という若さで急逝する。
「今、2人の娘はさらに三女の分もと頑張ってくれています」と語る。

「この蔵は女の蔵」

長谷川社長と次女の聡子さん。東京をベースに、営業に奮闘する長女祐子さんを支え蔵を守る

「小さな蔵」と言いつつも長谷川酒造は、少しずつ輸出展開もしている。
幸子さんは日本酒を世界に広げたいという夢を持ち蔵に帰ってきた。そして今その夢を祐子さんが受け継いでいる。
祐子さんは、長岡の地を前面に出した酒など、意欲的に動き始めている。
「新潟には、醸造試験場や清酒学校など、頼りになる先生がたくさんいます。また80歳を超えた澤中杜氏のもとにも若い力が加わり蔵は随分と若返り、酒造りに意欲的に取り組んでくれています。」

酒蔵を意識せずに育った、と思われた娘たち。しかしその実、しっかりと「常に全力で頑張る母の背中を見てきた」と次女の聡子さんは語った。
豊かで良質ではあるけれど、決して穏やかとは言えない生まれ育った土地にこそ、自らの道があると、戻ってきたのだ。

蔵元が自信を持って勧める日本酒を、いくつか紹介しよう。

取材・文 / 伝農浩子